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日常と非日常 [日記]

いつも南東方面に仕入れに出かける時に通る道の脇に、田んぼが広がっている一角がある。先日そこを通った時には稲が少し伸びており、たくさんの燕や他の水鳥達が餌を取りに来ていた。特に取り立てて素晴らしい景色じゃあないけど、なんだかとても印象に残る風景だった。

“非日常”のために“日常”を存在させる種類の人達は確実に存在すると思うのだが、僕にはその考え方は良く理解出来ない。“非日常”はそれを繰り返す事で確実に“日常”に少しずつ近付いていく。そうすると、また新たな“非日常”を求める、その繰り返しが待っているだけなのだろうと思う。“日常”になってもまだそれを愛し続ける事ができれば、それはその人にとって欠く事の出来ない、確固とした物になっているはずだ。

人間は少なからず年を取ればそんな“日常”の価値に気づく物だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。街を歩いていると“非日常”的な価値感がどんどん増えていっている様な気がするのは自分だけだろうか。若者向けの物だけでなく、良い年をした人達向けの物まで。まるで外国の様な、リゾートホテルの様な、セレブ気分を味わえる、10才は若く見える、そんな感覚をくすぐっていく。ちょいワルやちょいモテなんていう気持ち悪いキーワードも、“ワル”や“モテ”を日常にする程の覚悟なんかないからこそ、“ちょい”なんて言ってカッコだけ付けて逃げているんだ。(本当に価値の有る何かの為に社会的に“悪”とされる事をやったり、家族に精神的な負担をかける程モテる気概も覚悟もない。そんな人間に本当の魅力がある訳がない)。南欧の建物を意識したのか、白いサッシを付けてテラコッタの瓦をのせた家、デザイナーズなどと称してただコンクリート打ちっぱなしでやたらシンプルな空間と収納の少ない“スタイリッシュな”キッチンが自慢のマンション、海外の一流ブランドばかりが集合した街並、“芸術”と言われれば納得せざるを得ない様な空気...同じ根っこでつながっている様な気がする。老いも若きもどんどんエスカレートしていく“非日常”ヘの欲求に社会はこれ以上耐えていけるのかな...そろそろ限界じゃない?“日常”が充実してるからこそ、“非日常”がエキサイティングなのであり、“非日常”がエキサイティングだからこそ、それが“日常”をより充実させてくれるんだと思う。“日常”に隠れている美しさや歓びを見つけられない人には、“非日常”の醍醐味にも気がつかないだろう。


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